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モハマッド・バクリの来日公演と映画上映 

イスラエルのパレスチナ演劇家モハマッド・バクリの来日公演があります。イスラエル国内で差別を受けるパレスチナ人のなかで、例外的な成功を収め国際的な映画スターの地位を得た優れた俳優ですが、2003年のイスラエルによるジェニン侵攻と虐殺を描いたドキュメンタリー映画によってイスラエル国内で激しい非難を浴び、困難な時期を経験することになりました。そのさなかの2004年秋、アーティスト達とナザレを訪問した際に、御宅でお話を聴く機会があったのですが、「パレスチナ人としての誇りを持ちながら、同時にイスラエル社会の有意義な一員として生きていきたい」と述べていたのが心に残っています。


このほど、四方田犬彦さんの努力で来日公演が実現することになりました。イスラエル国内のパレスチナ人の置かれた状況を認識するよい機会だと思います。みなさま、ふるってご参加ください。以下は、それについての情報をまとめたものです。

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パレスチナ演劇(7)演劇運動は復活するか 

二度のアルカサバ来日公演
こで思い出したのは、アルカサバがおこなった二回の来日公演の違いです。最初の公演は、役者たちが日常の体験をもとに即興でつくりあげる共同制作の手法を用いて、占領下の生活を描いていました。そこにあふれていた(おそらく身を守る最後の武器としての)絶妙な自嘲的ユーモアは、比類のない力で不条理を浮き立たせていたと思う。思えば、これは第二次インティファーダが熾烈をきわめていた二〇〇二年ごろ、危機的な状況への応答としてつくられていたものです。まさにハヤンの言う、演劇によるインティファーダへの参加であり、それによって強烈な力をとりもどしてみせたのだということもできるでしょう。
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パレスチナ演劇(6)オスロ以降の「ヒモつき」演劇 

1993年にオスロ合意が成立すると、西岸やガザには歴史上はじめてといってよい大規模な資本の流入が始まりました。イスラエルの占領政策で発展を阻害されてきた経済に、欧米から多額の資金が投資され、急速な開発ブームがはじまったのです。欧米で教育を受けた優秀な人材が大挙してパレスチナに帰還し、ラマッラーは活気にあふれました。文化活動に対してもEUを中心とする多額の資金が投入され、新しいNGOが数多く創設されました。
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パレスチナ演劇(5)芸術的な成熟とインティファーダ 

芸術的な成熟
70年代にはおおむねこのような政治運動としての演劇がつづき、80年代にはいってようやく芸術性をもった本格的な演劇がさかんになってきました。政治演劇にたずさわってきた人々のなかから、次第に技術をたくわえ感性を磨き、イデオロギー中心の表現にあきたらず純粋な芸術性をめざす真の芸術家が生まれてきたのだとハヤンは言います。観客もまた成長し、だんだんと目が肥えてきたため、従来の政治演劇は人気を失っていきました。この動きのさきがけとして、1970年代後半に新しい演劇集団が登場しました。1975年に結成されて、はじめて職業演劇をめざしたSandouq El Ajabです。この試みが挫折した後、1977年に冒頭で述べたハカワーティ(El Hakawati)が結成されました。ハカワーティはBalaleenのつくりあげた集団創作のスタイルを継承発展させて、パレスチナの演劇運動における方法論に大きく貢献しました。
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パレスチナ演劇(4)演劇のはじまり 

パレスチナの演劇の歴史はそれほど古いものではありません。伝統的には、アラブカフェで客に物語を聞かせるハカワーティや、各地を巡業する人形劇や紙芝居のたぐい(ボックス・シアター)などがありましたが、近代演劇のはじまりは一九世紀中ごろです。当時オスマン帝国に進出していたプロテスタント各派がパレスチナ各地にミッションスクールを建て、教育活動の一環として演劇を導入しました。当時はYMCAのような社交クラブや文化団体が多数存在していたことも、演劇が地元に受け入れられる受け皿を提供することになりました。ヨーロッパの演劇が翻訳され、上演されたそうです。二〇世紀初頭には各地に劇場が建設され*、一九二〇年代には地元の劇作家による文芸誌が登場し、はじめて「女優」が出現するなどして、ハイファを中心にパレスチナ各地で演劇活動が盛りあがりました。イギリス統治時代(1917~48年)には、政治的な内容のものや反シオニスト的な主張は当局によって取り締まられていたが、演劇活動は盛んで、多くの劇作家や俳優が誕生して人気を博しました。

* 当時の主だった劇場は、アッカのBustan Al Inshrah、ハイファのCinema Aden Theatre、ジャッファのCinema Al Hambra Theatre、エルサレムの Zahrat Al Sharq Coffee Theatre、ラマッーラの Dunya Cinema and Theatreなどで、二〇世紀初頭に設立されたものが多い。各地に上演の拠点ができたことにより、トランスヨルダンも含めた《全国》巡業がうながされました。
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パレスチナ演劇(3)パレスチナ人であるとは政治的であること 

エルサレム出身のハヤン・ジュべは、ラマッラー市街の南部、サカキーニー文化センターの近くにスタジオを経営し、TVニュース番組やドキュメンタリーを制作しています。選挙直後だったので欧米の取材チームもここに間借りして映像を送っていたようです。ハヤンはかつて80年代に演劇運動にかかわり、監督、脚本、プロデュースなどをおこなっていました(写真は彼が1985年に書いたGeneral Sirという劇のもの)。いまも演劇の世界とのかかわりは深く、もともと数の限られた演劇人たちのあいだではよく知られた顔です。アルカサバを案内してくれたモアズは、じつは彼の甥っ子だということが後で分かりました。モアズの姉もアルカサバにいたことがあるらしく、どうやら一族そろって演劇人のようです。演劇にかぎらず、ラマッラーで文化人といえば、だれもが互いに子供のころから知っているような狭い狭い世界です。彼が経営するディーワーンというカフェは、そうした文化人のたまり場です。パレスチナのアーティストによるCDや本や絵葉書が置いてあり、PCも使えます。
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パレスチナ演劇(2)三つの劇場 

まずは具体的に、今日のパレスチナにおける演劇活動を支える中心的なヴェニューとして、ナショナル・シアター(旧ハカワーティ)、アルカサバ、アシュタールという三つの劇場を見てみましょう。

滞在中たまたま東エルサレムのナショナル・シアターでイプセンの「ゴースト」が上演されていて、レセプションもあったので立ち寄ってみました。体面を重視する市民社会の偽善というイプセンのテーマが共感されたのでしょうか。言葉はわかりませんが、ある程度ローカリゼーションはなされているようです。しかし演出は外部の人でしたし、どうやらここはもはやハカワーティという劇団のホームシアターではないらしい。「一九八四年に建てられ、最近までは占領地におけるゆいいつの文化芸術センターとして重要な役割をになった」と劇場の資料に書いてあるように、国内のさまざまなアーティストに開放されているのです。子供向けのプログラムもおおく、国際人形劇フェスティバルは昨年で一四回目をむかえています。劇場側の資料には、設立の翌年、劇場の運営はハカワーティのメンバーの手をはなれ、地元の文化人や名士が構成する理事会にゆだねられたと書いてあります。ふむふむ、では劇団ハカワーティはどこへいったのだろう。

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