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マリアム・サイードの危惧 

5月3日は憲法記念日。「映画 日本国憲法」のインターネット配信があったのに、それをほっぽり出して来日中のマリアム・サイードと日光へ。東照宮をぜひ見たいとおっしゃるので、「でもねー、あれはねー、権力誇示の象徴以外のなにものでもないので、様式美や精神性を期待するときっとがっかりするのよ」とみんなが忠告したのですが、アメリカの友人たちがよほど強くオススメしたのか彼女の好奇心は抑えがたく、自分の目で見るまでは納得しそうもない。というわけで十数年ぶりに東照宮を訪れることになりました。
今回感じたのは、メインテナンスが悪くて建物が全体にすすけていたことで、はじめて見たときの「グロテスク」という印象さえも希薄でした。悪趣味には悪趣味なりの力があるのですが、そんな毒気にもとどかないほどオーラが抜けきっている感じです。

「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の彫刻にしげしげと見入るマリアム・サイード。そういえば、これってエドワード・サイードとはまるで対極的な立場を象徴するものだなあと、はたと気がついたのですが、絶妙の対峙シーンを記録するシャッターチャンスは逃してしまいました。残念。

車中でしきりに彼女が気にしていたのは、前日のNHKBSでの生出演でのコメント。もっと言いたいことがあったのに端折ってしまい、言葉が足りなかったところもあるので、意図が伝わらなかったのではないかと心配しているようです。たしかにキャスターのおふたりからは戸惑ったような表情や沈黙を感じましたし、最初の質問をのぞいては彼女のコメントへのフォローアップもなかったように思います。

映画のダイジェストと佐藤監督のコメントが放映されたあと、エドワード・サイードが生涯を通じて訴えつづけたのはなにかと聞かれて、マリアムは「(映画のダイジェストで紹介されたような)多様性ではないし、両サイドに複雑な事情があるということでもない。彼が訴えつづけたのはパレスチナ人にする不正をイスラエルが認めないこと、そのために占領が続いている事実だ」と明言しました。

一瞬あっけにとられたような沈黙があってから、長崎さんはこれを引き取って、「イスラエルとパレスチナの圧倒的な力の不均衡」という話題に置き換えて次の質問につなぎました。その後イラク問題へと話題を移したときもそうだったのですが、マリアムがくりかえし「占領」への反対を訴えているのに、長崎さんの口からはついに「占領」の言葉はでてきませんでした。とはいえ意図的であったかどうかは、わかりません。

マリアムの危惧は、この映画がイスラエルによる事実の隠蔽に利用されるのではないかということのようです。「論争的な映画になることは避けた」という佐藤監督の姿勢を反映して、映画にはイスラエルの占領や戦争犯罪が直接に言及されることはありません。言わずもがなということなのでしょうが、実際にはそのようなパレスチナ人の生活の根幹にある基本的な事実でさえも、直接かかわりのない人々の意識からはかんたんに滑り落ちてしまいます。

そのことをすっ飛ばして、イスラエル社会にも複雑な事情が存在するのであり、両者はじつは似たもの同士なのだよ、みたいに安易なかたちで映画の内容を集約されてしまうと、イスラエルに現状肯定のいいわけを与えるものになってしまいます。それは大きな誤解だし、少なくともサイードの主張とは関係のないものです。そんなものがサイードの名前を借りてイスラエルに利用されるとすれば、たしかに由々しき事態でしょう。

わたしの観点からは、問題のひとつとして、どうも日本の美徳とされる「和」という観念が、サイードの言う他者との共生を理解することの妨げになっているのではないかという気がしています。立場は違っても、とりあえず協調を重んじていこうというのは、日本社会ではとても受け入れやすい訴えなので、なんだか違う回路で受け入れられているのではないかとわたしは勘ぐっているのです。

異質なものどうしが、たがいの差異を認めあって一緒に生きていこうというとき、日本的な解釈では、そこに想定されているのは、差異を調停して一致点をみつけようとしたり、不和の種には口を閉ざすというかたちで実現する固定したイメージの「和」なのではないでしょうか。でもサイードが言っているのはそうではなくて、互いの立場の違いを肯定的し、論争することをよしとし、永遠の葛藤のなかでみずからも変化していくことをよしとするものだと思うのです。差異の克服をめざすのではなく、差異の存在を肯定的にとらえるといったらよいのでしょうか。

ですから、あなたもわたしも人間としての根っこは同じよねという言い方に還元されてしまうのは、わかりやすいだけになんだかすっきりしません。まあ、そういう誤解を招きそうな部分が批評されるようになれば、絶賛するしかない映画よりも逆に面白くなると思うので、かならずしもネガティブではありません。

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コメント

マリアム・サイードの危惧

折角メールでご連絡いただいたのに、NHKの番組は見られませんでした(数十年振りに会う大学の同期との飲み会があり)。NHKの番組の進め方に関してはよく理解できます。「和」と言えば聞こえはいいですが、実体は「臭いものに蓋」とも言えます。それでは、いつまで経っても改善されない。役人の無責任さとか、あげればきりがありません。パレスティナ、南北問題、地球環境、これではいつまで経っても解決しません。

岡田さん
そうなんですよ、基本的に論争は避けようというのがこの社会では一般的な合意事項のようですからね。NHKの番組にしても、なにもキャスターに特定の意図があったということではなくて、たぶんあれが普通の反応だったのだろうと思います。

ことパレスチナ問題についてはアメリカでもそれは同じで、そういう風潮に抗して無理やり問題に目を向けさせるのがサイードがしてきたことだったのですから、マリアムさんはそれを踏襲しているといえますね。

う~ん、中野さんの話を聞くかぎり、映画もそんなに絶賛されているほどには… ということなのかしら。日本人観客にとって、カタルシスとして機能してしまっているような気もしないでもない。まあ帰国したら見てみたいとは思っていますが。

マリアム・サイードの言葉から、シヴァンの「否認の終わりが出発点なのです」という言葉の反響を見てしまいました。

いや映画そのものというよりは・・・

それをダイジェストして紹介するときに陥ってしまいがちな罠について言いたかったのです。
映画については、佐藤さんのアプローチはそれなりの見識だと思います。たぶんパレスチナ・イスラエルの問題で一番やっかいなのは、双方が相手の存在をみとめようとせず、自分たちの「正義」を一方的に主張するのみで、相手を無視すればその存在が消えてくれるかのような幻想に浸っていることだろうと思うのです。たとえばパレスチナ側でいえばPFLPのような伝統的運動方針の人たちは今でもイスラエルとは一切かかわらないという立場をとっており、対話も議論もいっさい成立しません。そうすると暴力的な手段による解決以外に解決はありえないということになってしまいます。実際そういう方向にもっていきたい人たちは双方に(たぶん、どんな国にも)存在していますからね。
もし暴力的な手段ではない解決を望むのであれば、まず相手が存在することを認めることが不可欠です。そういう状況を念頭において、佐藤さんが論争を前面に出すのではなく、別のアプローチをとったことは評価したいとわたしは思います。日本人という良くも悪くもこの問題の圏外におかれている者の立場から、ナイーヴではあっても現地の一般の人々に焦点をあてようとしたのですから。
ただ、そういう佐藤さんのアプローチをこれぞサイードの主張の集約だとでもいうように表層的にまとめてしまうのは大きな誤解を生むことだし、それだけでなくイスラエルによる現状肯定に利用される危険があることは、マリアムさんが指摘したとおりです。わたし自身は先入観なしの人間ではないので、個人的な意見としてはもっとパレスチナの人たちが描かれてもよかったなあと思うのですが、そこには諸般の事情というものがあったらしい。そのぶんはできるだけ書籍の方で補ったつもりです。

なるほど。ある意味シヴァンのような立場とは異なるアプローチということなのですね。しかしそういう芸術というものが可能なのかどうか、ひょっとするとある種恵まれた条件のもとにしか可能ではないのかということも含めて、観るのがとても楽しみですね。

でも、『ルート181』を観て「恣意的」という感想をもってしまう日本人もいる中(『ショアー』はどうなの?)、佐藤さんのアプローチはそれはそれで評価されるべきなのかもしれませんね。

三猿

余談の部分ですが、三猿に関して一言。
「見ざる言わざる聞かざる」の発祥は、確か天台宗の瞑想時における境地を現わしていると記憶しています。一般的には事なかれ主義的に解釈されがちですが、普段の意識レベルとは異なる、雑念を排した領域です。話は飛びますが、密教はともかく、絶対を想定しない仏教の根本理念は、世界の大宗教のなかでは最も現代思想に通じるものがあると思います。

三猿 追記

不確かだったので、三猿の起源を調べてみました。日本では天台宗の教えが始まりのようですが、中国、インドはもとより、バグダット、ベイルート、キプロス、エジプト、(アフリカ)まで、しかもBC3000年まで遡る可能性があるようです。それは必ずしも猿ではなく、人間もしくは神人で表わされ、目、耳、口を手でおおう行為は同じです。その意味は主に悪を見ざると、否定の前に悪がつく、正義の実践の反語的表現です。
サイード夫人、三猿が見たかったのでは?と思いたくなる出自でした。

鞍馬さん
教えていただいてありがとう。あらためて調べてみると、三猿って、ずいぶんいろんな意味があるのですね。起源にしても諸説あるようですし、うーむ奥が深い。きわめて表層的に受け止めていたことを反省しています。

うさんくささ

東大名誉教授、板垣雄三先生の講演会で、「マリアム・サイードがこの映画がイスラエルの都合の良いように使われるのではないかと危惧している」と話した時、日本語の字幕では、「私達は暴力の連鎖を断ち切らなくてはなりません」と書かれていたそうです・・・!

世界中の大手メディアはシオニストに操作されていますから、NHKなど本当にそうなのではないでしょうか。

パレスチナに関するドキュメンタリーはどんなに素晴らしいものでも全く大手メディアは取り上げない中、あの映画がなぜサイードという名を借りてあれほどまでもてはやされたのか、本当にうさんくささに満ちていると思いました。

日本で一番長くパレスチナを取り続けている広河隆一さんのNAKBAは、決してあのようにされませんよね。

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