リクード
Likud 1973年9月に結成されたイスラエル国会における右派政党連合。その中核となったのは、メナヘム・ベギンが率いたイギリス委任統治時代の反体制テロ組織イルグーン(イスラエル独立後はヘルート党)で、彼らが「イスラエルの土地」と考えるもの(西岸地区も含まれる)すべての領有を主張する大イスラエル主義を掲げ、領土問題での妥協(占領地の返還)を拒絶する。
1977年の総選挙の結果、建国いらい政権を握ってきた労働党を破り、ベギン政権が誕生した。以後リクードは1992―1996年(労働党がオスロ体制を進展させた時期)を除いてずっと権力の座にある。
1977年の総選挙の結果、建国いらい政権を握ってきた労働党を破り、ベギン政権が誕生した。以後リクードは1992―1996年(労働党がオスロ体制を進展させた時期)を除いてずっと権力の座にある。
- [2005/11/30 07:05]
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カナの虐殺
Qana 南レバノンの町。1996年4月18日、南レバノンでヒズボッラーと交戦中だったイスラエル軍が、カナの国連レバノン暫定部隊の兵舎を爆撃した事件。周辺の町や村からキャンプに非難していた住民が100人以上もまきぞえになって死亡した。
ラビン首相の暗殺後に短期間首相をつとめていたシモン・ペレスは、民間人がいたことには気づかなかったとコメントした。
ラビン首相の暗殺後に短期間首相をつとめていたシモン・ペレスは、民間人がいたことには気づかなかったとコメントした。
- [2005/11/30 06:56]
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ヘブロン協定
エルサレムの南東にある西岸地区の都市ヘブロンは、アブラハムと家族の墓があるとされ、ユダヤ教ではエルサレムに次ぐ神聖な土地。ムスリムにとっても聖地である。オスマン時代から住民はムスリムが圧倒的多数を占めており、48年にヨルダン領となるころにはユダヤ系住民は皆無だった。だが67年にイスラエルの軍事占領がはじまると、過激な右派宗教シオニストがヘブロン奪還をねらって近隣にキリヤット・アルバという入植地をつくり、アラブ人を攻撃して土地を奪っていった。79年にはこの入植地の女たち30人がヘブロン中心街の病院に押し入り、そこを占拠した。彼らはそのまま居座って、イスラエル政府の承認と軍隊の支援のもとに、街の中心の一角を強引に奪い取った。それ以降も同じ様な方法で、ヘブロン市の内外に20カ所以上のユダヤ人地区がつくられた。
イスラエル軍がヘブロン市街の80パーセントから撤退するというふれ込みで、あたかもイスラエルの譲歩であるかのように伝えられた97年1月のヘブロン撤退協定は、「撤退」という美名のもとに実際には本来アラブ人の街であるヘブロンをユダヤ人地区とアラブ人地区に分割することを承認するものに他ならない。占領地への入植どころか、アラブ人の街の中心部を力ずくで奪い取るという行為を正当化することに、アラファートの自治政府が合意したことになるのである。2005年10月現在、アラブ系住民の暴力的追い立てが進められている。
イスラエル軍がヘブロン市街の80パーセントから撤退するというふれ込みで、あたかもイスラエルの譲歩であるかのように伝えられた97年1月のヘブロン撤退協定は、「撤退」という美名のもとに実際には本来アラブ人の街であるヘブロンをユダヤ人地区とアラブ人地区に分割することを承認するものに他ならない。占領地への入植どころか、アラブ人の街の中心部を力ずくで奪い取るという行為を正当化することに、アラファートの自治政府が合意したことになるのである。2005年10月現在、アラブ系住民の暴力的追い立てが進められている。
- [2005/11/29 19:00]
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ギロ入植地
西岸地区ベツレヘム近郊のイスラエルの入植地。
1870年にイスラエル政府はベツレヘム地区の町ベイト・ジャラの住民が所有していたものを中心に2,700ドゥーナムの土地を没収した、翌年からそこにギロ入植地の建設をはじめた。以来、急速に都市化が進み、2002年現在で3,700ドゥーナムの土地に31,000人のイスラエル人が入植している。
1867年の第三次中東戦争後、イスラエルはエルサレムの境界線をパレスチナ側に拡大しはじめ、東エルサレムの土地を没収すると同時に隣接するベツレヘム地区の土地を強引に併合していった。ギロ入植地もその一例であり、そのねらいはエルサレムとベツレヘムの交通を遮断し、ベツレヘム地区の都市開発を阻止することにある。
1870年にイスラエル政府はベツレヘム地区の町ベイト・ジャラの住民が所有していたものを中心に2,700ドゥーナムの土地を没収した、翌年からそこにギロ入植地の建設をはじめた。以来、急速に都市化が進み、2002年現在で3,700ドゥーナムの土地に31,000人のイスラエル人が入植している。
1867年の第三次中東戦争後、イスラエルはエルサレムの境界線をパレスチナ側に拡大しはじめ、東エルサレムの土地を没収すると同時に隣接するベツレヘム地区の土地を強引に併合していった。ギロ入植地もその一例であり、そのねらいはエルサレムとベツレヘムの交通を遮断し、ベツレヘム地区の都市開発を阻止することにある。
- [2005/11/29 15:54]
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エルサレム
Jerusalem アブラハムを祖とする三つの一神教(ユダヤ、キリスト、イスラーム)の聖地が集まっているため、十字軍の遠征をはじめとして歴史上しばしば紛争の対象となってきた。1947年の国連総会におけるパレスチナ分割決議では、エルサレムはシオニストとアラブのどちらにも属さず、国際管理のもとに置かれると定められた。だが、48年の戦争の結果、東エルサレムはヨルダン、西はイスラエルの支配下に入った。その後67年の戦争で東エルサレムもイスラエルに併合された。イスラエルは80年にエルサレムを首都と宣言し、東エルサレムへの入植を進めた。
- [2005/11/29 15:41]
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ワイ・リヴァー首脳会談
Middle East summit conference at the Wye River Plantation 1998年10月、クリントン大統領が合衆国マリーランド州のワイ・リヴァー・プランテーションにネタニヤフ首相とアラファート議長らを招いて開催した、パレスチナ占領地の最終地位交渉についての首脳会談。ここで交わされた覚書(ワイ合意 Wye River Memorandum)では、95年の暫定自治拡大合意(オスロII)の実行に際しての両陣営の責任の明確化が図られ、3段階に分けたイスラエル軍の西岸からの追加撤退などが定められたが、後にネタニヤフによって破棄された。
- [2005/11/29 15:37]
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キャンプ・デーヴィッド首脳会談
2000年7月にアメリカのキャンプ・デーヴィッドにおいて、任期終了直前のクリントン大統領の仲介で、イスラエルのバラク首相とパレスチナ自治政府のアラファート議長が、棚上げにされていたパレスチナの最終地位の問題などについて話し合ったが、決裂した。欧米のメディアでは、イスラエル側が「最大の譲歩」を示したにもかかわらず、パレスチナ側が「非妥協的な態度」を取ったために決裂したと宣伝されたが、実際に提示された解決案は、とてもパレスチナ側が受け入れられるような内容ではなかった。詳しくは本書の第14章を読んでいただきたい。
ちなみに1978年のエジプト(アッサーダート)、イスラエル(ベギン)、アメリカ(カーター)によるキャンプ・デーヴィッド首脳会談とは別のものである。
ちなみに1978年のエジプト(アッサーダート)、イスラエル(ベギン)、アメリカ(カーター)によるキャンプ・デーヴィッド首脳会談とは別のものである。
- [2005/11/29 14:59]
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